日本の獣医学教育体系の中ではまだ麻酔学講座が独立しておらず,40〜50年前の人間の外科がそうであったように麻酔は外科が担当している。だからといって麻酔が軽んじられているわけではない。動物実験においては麻酔事故が起きたとしても研究当事者は困ることはあっても特に大きな社会問題にまで発展することは少なかったと思うが,獣医診療の領域では麻酔事故は訴訟事故に最もつながりやすいものの一つである。この意味あいも含めて獣医学において麻酔は古くから大変重要な部分であり,「手術台の上では絶対に動物は死なせない」というのが平素からの我々獣医師の基本的姿勢である。
獣医師の対象とする動物は本来は患者であるものの,他方同じ種類の動物が実験に使われる場合も少なくないが,実験動物の場合でも上記の姿勢にほとんど変わりはない。諸外国でも動物の麻酔に対する関心は非常に高く,米国では医学においてAmerican College of Surgeons等の専門家協会の制度があるように,獣医学の分野にもdiplomaの制度があるが,最初にできた獣医学の専門家協会は麻酔学であった。日本でも数十年も前から獣医麻酔研究会(現,獣医麻酔外科学会)が活発な活動を展開して現在1,500人ほどの会員を擁して
おり,国際的にも獣医麻酔学シンポジウムが定期的に開かれている。
このような背景もあって獣医臨床にあっては,動物の種類に特有な解剖・生理あるいは行動・管理上などの特徴を考慮しつつ医学分野の麻酔薬や麻酔機材の進歩をも十分取り入れた麻酔法や麻酔管理技術が広く普及しているが,残念ながら実験動物の分野においては,殆ど同じ種類の動物を使うことが多いのにも関わらずその成果が十分応用されているとは言い難い。しかし,かといって獣医臨床に用いていると同レベルの麻酔技術を実験動物で実施することが絶対必要かというと,必ずしもそうとは言えない一面があることも事実である。動物実験の目的,実施する現場の施設・設備,スタッフの経験・技術等,いろいろな制約の中で動物実験を行わざるを得ない以上,やむを得ないことであろう。だからといって,実験動物に対する麻酔を軽く考えてよいと言っているのではない。多くの実験者が比較的簡単かつ安全・確実に使用できる麻酔法の開発は是非必要であるが,その際には,評価に絶える実験データーを得るのに適した麻酔法であると同時に,近年とみに社会的関心を集めている動物福祉にも十分配慮してできる限り動物の苦痛を排除する努力が求められている。幸いなことに獣医臨床麻酔でこれまでに研究・開発された成果の中には,実験動物で要求される上記の
諸条件を満たした麻酔を実施するうえで有用なものが少なくないと考えられる。
以上から本講演では,必要以上に理想像にこだわらず,従来から比較的多用されている主要麻酔法の適用と限界,そしてそれらを改善して安全性や利便性をたかめ,適用の拡大を計るための具体的方法を考える上でご参考になりそうな事項を選んで解説する。なお具体的な麻酔管理技術は施設により必ずしも一定ではないが,ここに紹介するのは筆者の在職時代をも含めて東京大学農学部獣医学科獣医外科学教室において主として循環器系,呼吸器系への影響に関する検討から他よりも好ましいと判明している薬剤を中心とし,さらに学生実習
に使用している麻酔管理の手順を参考にしながら説明する。ただし時間的制約の関係から,主としてイヌおよびネコについて説明し,ブタとヒツジ・ヤギについては,その解剖学的ならびに生理学的特徴からとくに留意すべき点に絞って述べることとする。