霊長類の環境エンリッチメントについて

森村 成樹
(株)林原生物化学研究所類人猿研究センター

 「心理的幸福 Psychological well-being」が合衆国動物福祉法の修正条項で定められてから、動物園を中心に、様々な飼育動物種に対して「身体的」健康だけでなく「心的」健康が配慮されるようになってきた。それは動物が“本来”持っている行動を発現する機会を与えるように物理的・社会的環境を整備することとされている。つまり、霊長類では野生下での生活をモデルとして、飼育下でもその状態に近づけることが求められる。

 このことは野生環境の再現を意味するのではなく、野生環境が持つ機能を飼育環境に附与し、附与された機能を動物が利用する機会を保証することである。例えば、チンパンジーの採食について考えてみる。野生では自らが食物を探索し、見つけることで、初めて入手することができる。食物を見つけても、口にするまでに様々な行動をおこなう。野生のチンパンジーは採食の過程で様々な道具を使用する。草の茎などを使ってシロアリを「釣る」。固い殻に覆われたナッツは、石で殻を叩き割ってから中の核と呼ばれる部分を食べる。さらに、食物をめぐって異種・同種の他個体と競合することになり、捕食者との関係も含め複雑な社会的交渉を伴う。

 何を、いつ、どこで、どのように食べるかという採食の一連の過程は、チンパンジーが持つ様々な認知能力を発現する機会でもあり、単純な栄養摂取の過程ではない。飼育下のチンパンジーが様々な認知能力を発現することによって餌を得るような給餌をおこなうことが、野生をモデルとした採食についての環境エンリッチメントとなる。ただし、こうした環境エンリッチメントを紋切り型に同種すべての個体に当てはめることはできない。

 個体の特性、飼育履歴、病気などによって、本来持っているはずの認知能力や身体運動機能が十分に発達しないことがある。野生状態をモデルにするとしても、どの程度満たすかは個体によって調整する必要があり、置かれている環境をどのように感じるか、環境に対する快・不快といった各個体の情動的な側面も看過できない。

 心理的幸福を満たすうえでは、個体レベルの認知能力や情動的側面を考慮しながら動物が環境と関わる機会を保証するよう環境エンリッチメントをおこなう必要がある。本発表では、霊長類の環境エンリッチメントの実例および動物園でおこなった行動観察や実験から得られた知見について紹介する。