特別講演1:

ゲノム医科学と動物実験

                           三好 一郎

(東北大学大学院医学系研究科附属動物実験施設)

 我々の体は,一個の受精卵が,分裂・分化を繰り返し10ヶ月後には約60兆個の細胞からなる個体として誕生する。 その間,細胞の分裂回数,あるいは,数,形態,系列への分化の時期,空間的位置などの様々な制御が秩序だって行われることによって組織や 器官が構築され個体に至る。その遺伝情報の源は,受精卵の染色体〔ヒトの場合22対の常染色体と性染色体(XXまたはXY)〕 を構成する全てのDNA,ゲノムである。ヒトの場合,約30億塩基対から構成されるゲノムが個体の基本的設計図として表現型を決定している。 更につっこんだ言い方では,ゲノムとは,生物が生活環を営む上で必要な遺伝情報の全てと言える。

 ゲノムの化学的本体は,DNAの二重らせん構造である。その解明以来,生物の様々な表現型(機能)がDNA上にどの様に記述されているかが, 生物学の大きな命題となってきた。従来からのタンパク質から生物の機能を解明する生化学的手法と,遺伝子からアプローチを試みる分子遺伝学的な手法が 融合した分子生物学がDNA組換え技術と塩基配列決定技術を飛躍的に進歩させ,遺伝子研究を発展させた。その結果,遺伝子の構造,および, その発現(mRNAやタンパク質)が体系的に結びつけられ,疾患関連遺伝子の同定に代表されるように,個々ではあるが遺伝子の機能が個体レベルで解明され始めた。

 一方ではゲノム解析として猛烈な速度で全塩基配列の決定が行われており,今年になってヒトやマウスの95%以上の解読を終了 したといわれている。それ以外の生物の塩基配列では,バクテリオファージを含む多くのウィルスのゲノムやミトコンドリア,葉緑体のDNAについて報告されている。 また,大腸菌やマイコプラズマなど相当種の微生物のゲノムの全塩基配列は公開されている。出芽酵母や線虫では完了し,ショウジョウバエや植物でも進行中である。

 全塩基配列が決定されることにより,ゲノム機能の解明が本格化する。また,個別の生物の遺伝情報が解明されるにつれ,医科学や生命科学の概念と方法論が 大きく変わり始めた。即ち,疾病などの現象を単純な因子に分けて解析した後,それらを再構築することで説明するという従来の帰納的な方法から,全塩基配列の 解析結果をもとに,遺伝子機能を網羅的に効率よく解析する手段を用いて全体を包括的に分析することによって個々の事象を理解する演繹的方法論に移行し始めている。 最近話題になっているDNAマイクロアレイやDNA チップ,Single nucleotide polymorphism (SNP) 等はその一部で,大量かつ体系的に遺伝子の発現情報を解析したり定性的差違を網羅的に把握する手段である。

 動物実験は,医学や生命科学にとって置き換えることの出来ない,そして様々な点でデリケイトな実験系で,ゲノムの概念の無い時代から 行われていたことは旧知の事実である。実験に使用される動物種の選択には必然性がある。しかし,最近マウスを用いられる事が非常に多くなった。理由としては,以下のことがあげられる。

  1. マウスを用いることで交配実験が可能になり,遺伝的に制御された系(近交系やコンジェニック,ミュータントなど)が存在することから多因子遺伝の研究が出来る。
  2. ライフサイクルの中でヒトでは単離できない遺伝子が単離できることから胎仔遺伝子や致死遺伝子の実験が可能になる。
  3. マウスのゲノムはヒトゲノムとほぼ同じく30億塩基対,10万遺伝子の規模であり,ヒトの遺伝子は殆どマウスにもあり,染色体間でのシンテニーの存在も知られている。
  4. ヒトにある殆どの疾患がマウスにも存在し,ヒトのモデルとしての研究的背景もある。
  5. 発生工学的手法を用いることで,理論を検証したり新たな実験(疾患モデル動物として病態の解析や治療法の開発)が可能になる。

 これらは,現時点ではマウスゲノムを通してヒトゲノムを解析することが有効であるからに他ならない。特に,個体の全ての細胞で且つ全ての 発生ステージで任意の遺伝子機能を解析することを可能にした発生工学的手法(トランスジェニック,ジーンターゲッティング)はマウスを用いる大きな利点である。

 ノックアウトマウスの研究では,1つの遺伝子破壊が必ずしも1対1対応で表現型を示さない例が多い。即ち,様々な生命現象は遺伝子に刻み込 まれた情報の産物であるタンパク質のダイナミックな変動によって担われており,遺伝子破壊によりそのネットワークの一箇所に破綻が起きたことが起因して表現型を導いた と理解すべきであろう。このことは,決定されたゲノム塩基配列をもとにして,体系的・網羅的に遺伝子の発現情報を収集する必要性を示していると同時に,遺伝子操作マウス や突然変異マウスを利用して再度検索する意味も含んでいると思われる。この様に,ゲノム医科学の新たな手法が更なる疾患関連遺伝子の検索に有用であることは勿論, 効果的な遺伝子診断や(遺伝子)治療の面でも期待される。

 ゲノム関係のデータの蓄積は加速されてきたとはいえ,その解析は始まったばかりである。ヒトなどの哺乳類の進化や発生過程,あるいは, 本能や知能などの神経系の高次機能に関する(疾患関連)遺伝子群などの解析には,多種の多細胞生物の塩基配列及びその発現の情報が有用と思われる。また, それを追求していくことにより,その様な研究にはどの動物種を用いるべきか必然性が決定されるであろう。

 

[略歴]

1981年 北海道大学獣医学部獣医学科卒業

1986年 北海道大学大学院獣医学研究科修了 獣医学博士

1986年 北海道大学医学部附属動物実験施設 助手

1992~1993年 米国ニューオリンズ チュレーン大学医学部生化学 留学

1995年 東北大学医学部附属動物実験施設 助手 現在に至る